吉野ヶ里は、およそ50ヘクタールにわたって残る、弥生時代の環濠集落跡として知られています。
国営吉野ヶ里歴史公園として整備されていて、本当に綺麗で広々してて、復元された竪穴住居や高床の蔵などが沢山あって、当時にタイムスリップしたような気分になりました。
私達は、史跡のエリアを見学しました。
弥生時代はもっと原始的かと思っていたのですが、まとまった社会でそれなりに豊かな暮らしだったのだろうなぁ・・と感じました。
(likebirds妻)
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入り口に、集落を守る環濠とバリケード逆茂木(さかもぎ)
木製の船
貯蔵するための棟
高床式の貯蔵棟と背の低い竪穴式住居
中にはきちんと棚が
おお弥生時代のスケボー!! 。。当然叱られました。
物見櫓
物見櫓からの景色
当時の墓、奥から、北墳丘墓、立杭、祀堂
北内郭の大型建物 政務所
会議の様子
祭祀
4月18日、九州に来てから3日目です。
よか干潟、小城公園の次は予定通り吉野ケ里遺跡を訪れました。発掘調査の後は広大な遺跡公園として
開放されていました。この遺跡が「邪馬台国」であるかどうかは別にして、卑弥呼の登場する弥生時代の
生活の様子を垣間見ることが出来ました。
実際にこの集落の周囲は環濠で囲まれ、その内側は高い柵と先端の尖った杭など臨戦態勢の様相でした。
カラフルな剣や盾なども出土しているそうです。首のない埋葬者や腰周辺に30もの鏃が刺さっていたり
と、ヒェーーーッ!て感じを受けました。弥生戦国時代ですね。
誰でもここへ来ると、魏志倭人伝の「倭国大乱」を思い出すんじゃないでしょうか。自分もそうでした。
ここまで文化が発達していて倭国に文字が無かったのはちょっと残念な気がしました。農耕が定着して、
厳格な身分制度も確立していても、文字が渡来するまでもうすこし時間がかかったんですね。びっくり
したのはスピニングホイールも相当精密にできていました。思わずBS&Tを口ずさみました。
想像ですが、これは中国の文字が表意文字だったことが影響していると思います。文字が伝わると日本
ではすぐに表音文字が発明されました。やはり面積の小さい国には表音文字です。下から2番目の写真の
IQの高そうなお姉ちゃま達がサラサラッと書き残しておいてくれれば現代の歴史学者の人たちも「九州」
対「畿内」で大戦争することはなかったですから。
ところで弥生時代は紀元前5世紀から紀元3世紀までとすると約800年続いたことになります。そう
なると青銅器や鉄器が倭国に伝わった時代です。日本には青銅器時代はなくて鉄器と同時に伝わった訳で
すから、この時代も目まぐるしい激変の時代で物凄い変遷があったのだと思いました。この環濠内から前
方後円墳も発掘されているそうです。ということは弥生時代後の古墳時代には廃墟になっていたんですね。
バルス!
今回は弥生時代を見直す良い機会になりました。もっと野生的っぽいイメージでしたから。(likebirds夫)